『PERMANENT VACATION/パーマネント・ヴァケイション』1987年

6年ぶりにオリジナルメンバーに戻り発表された前作から約1年9ヵ月の期間を経て発表されたこのアルバムはカナダのバンクーバーにあるリトル・マウンテン・スタジオにおいてレコーディングされた。特筆すべきところは、Desmond Child、Jim Vallancs、Holly Knightといった、メンバー以外が共作とはいえ曲作りに参加していること。そしてこのアルバム以降も関係を続けるBruce Fairbairnをプロデューサーに迎えた事があげられる。

A面

  1. HEART'S DONE TIME
  2. MAGIC TOUCH
  3. RAG DOLL
  4. SIMORIAH
  5. DUDE(LOOKS LIKE A LADY)
  6. ST. JOHN

B面

  1. HANGMAN JURY
  2. GIRL KEEPS COMING APART
  3. ANGEL
  4. PERMANENT VACATION
  5. I'M DOWN
  6. THE MOVIE
以上12曲。一応LPでの発売もされていたのでA面・B面と分けて表記しました。

どの曲もバラエティに富んでいて今までのエアロからは考えられないほどに高いクオリティーで仕上げられている。特に『RAG DOLL』・『DUDE』・『ANGEL』はこれ以降のエアロの方向性を位置付けた作品だと思う。

70年代のエアロが持っていた、暗くてギザギザしたある種アクの強い作品は全く無く、サウンド的に変化をみせたこのアルバムは昔からのファンとして一抹の寂しさを感じる。

LP全盛の時代にピークを迎え、CDが現れると衰退し、CD全盛の時代に再び以前と同じ場所に舞い降りたエアロ。一聴すると明るい内容を持つこのアルバムは今までのエアロを望むファンに背を向け新たなる荒野へ、もう一つ上の場所へと自らを舞い上がらせたアルバムです。

このアルバムが『パーマネント・ヴァケイション』というタイトルだと聞いた時頭の中に浮かんだ事は「70年代〜80年代そして90年代を迎えようとする今」『過去には色んなことがあったさ。所詮人生は一瞬。その一瞬を自由にやる。自由に生きる。一瞬を永遠の休日のように』というメッセージを感じた。

おまけ、ビートルズの『I'M DOWN』をあんなにあっけらかんとプレーするなんて、開いた口が塞がらなかったよ。

エアロスミス生誕

AEROSMITHはSTEVEN TYLER/スティーヴン・タイラー1951年3月21日ニューヨーク生まれVo。JOE PERRY/ジョー・ペリー1952年9月10日マサチューセッツ州ボストン生まれG.Vo。TOM HAMILTON/トム・ハミルトン1951年12月31日コロラド州コロラドスプリング生まれBsの3人を母体としたバンドにBRAD WHITFORD/ブラッド・ウィットフォード1952年2月23日生まれG。とJOEY KRAMER/ジョーイ・クレーマ1950年6月22日生まれDr(THE JAM BAND)の2人を加えマサチューセッツ州ボストンで結成される。

翌72年にニューヨークへ拠点を移しライブ活動をはじめる。そのわずか一週間後には音楽関係者(特にCASH BOX)が注目し絶賛される事となった。同年8月にCBSコロムビアと契約し翌73年1月にファーストアルバム『AEROSMITH/野獣生誕』でデビューする。(21位にランク)。地元であるボストンの熱狂的ファンからアルバム収録曲『DREAM ON/ドリーム・オン』にリクエストが殺到しCBSは急ぎ同曲をシングルカットした。東海岸のみでのヒットではあったが全米59位にランクインした。

栄光の日々と翳り

翌74年4月にはセカンド・アルバム『GET YOUR WINGS/飛べ!エアロスミス』を発表する、その翌年の75年4月にはサード・アルバム『TOYS IN THE ATTIC/闇夜のヘヴィ・ロック』を発表した。その間にZZ TOPやBLUE OYSTER CULTらヘッド・ライナー達のコンサートのオープニング・アクトを務め、西海岸へも彼らの人気が波及し始めトップ・バンドへの道を登り始める。サード・アルバム『TOYS IN THE ATTIC』は全米11位までのぼり、その勢いに乗ってファーストからサードまでのアルバム全てがゴールド・ディスクを獲得する。

翌76年にはデビューシングル『DREAM ON/ドリーム・オン』が再ヒット(6位)し同年5月に4作めのアルバム『ROCKS/ロックス』が発表される。3週連続で全米3位にランクインされプラチナ・ディスクを獲得するのと同時に全米ツアーを開始。翌77年には初のワールド・ツアーへと乗り出す。日本でもエアロの人気は高く、その年の1月に来日を果たし武道館でコンサートをおこなっている。

77年10月のフィラデルフィアでのコンサート中にファンがステージに投げ込んだ花火(チェリー・ボム)がスティーヴンのこめかみ近くで炸裂し怪我を追う。一時は失明説まで流れた。同年12月に5枚目のアルバム『DRAW THE LINE/ドロー・ザ・ライン』を発表。(訳せば“限界ギリギリ”。まさに当時のバンドの状況そのまんま)78年から79年にかけてビッグ・コンサートや大規模なイベントやツアーを敢行する(カリフォルニア・ジャムU。テキサス・ジャム等)。

78年11月に初のライブアルバム『LIVE BOOTLEG/ライブ・ブートレッグ』を発表するがこの頃にはスティーヴンとジョーの方向性の違いが表面化する。そしてバンド全体にドラッグ汚染が進んでいた。(当時のライブビデオが何本か発売されてるけど演奏はムチャクチャ、スティーヴンの声は元からのしわくちゃ声がガラガラになってるし意味も無くステージ上でマイクスタンド持ってクルクル回るパフォーマンスを繰り返すばかり。崩壊寸前だった事が見て取れる。)

失意と凋落の時代

そんな状況の中79年12月に発売されたのが7枚目のアルバムとなる『NIGHT IN THE RATS/ナイト・イン・ザ・ラッツ』だったがファンの期待を裏切る作品となり結果としてジョーが脱退してしまう。スティーヴンも病気(?)で倒れ、翌80年にはもう一人のギタリストのブラッドまでがバンドを離れてしまいエアロは空中分解の危機を迎え活動休止状態へと追い込まれる。

80年12月には8作目で初のベストアルバムとなる『AEROSMITH'S GREATEST HITS/エアロスミス・グレイテスト・ヒッツ』を発表。過去6枚のアルバムからの選曲に加えて映画『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド』のサントラから『カム・トゥゲザー』を収録。

81年に入るとジョー・ペリーとブラッド・ウィットフォードの2人はそれぞれに積極的な活動を展開しはじめる。それに呼応するかのようにエアロも元クレイムのジミー・クレスポともう一人リック・デュフェイというギタリストを迎え活動を再開し、82年10月に新生エアロの第一弾として『ROCK IN HARD PLACE/美獣乱舞』(これも意味深なタイトル)を発表するが、かつての輝きを再現する事は出来なかった。

この頃のMTVを見るとエアロからオーラが全く無くなっているのが分かる。スティーヴンは髪を短く切ってるしメンバー全員が皮ジャンを着てる姿を見ると痛ましい気分になる。

エアロスミス再降臨

その後は一切の活動を停止し解散説まで流れていたエアロだったが、モトリー・クルーやラッツといった若いバンドが自分たちのルーツミュージックとしてエアロの名を挙げたことで彼らの名は一気に神格化されていった。それと時を同じくするかのように84年にジョー・ペリーとブラッド・ウィットフォードが再加入しオリジナルメンバーでの活動をはじめていた。

85年になると新たにゲフィン・レコードと契約し同年10月に通算10枚目となるアルバム『DONE WITH MIRRORS/エアロスミス!!ダン・ウィズ・ミラーズ』を発表(このタイトルヤバ過ぎ!)。ジョー・ペリー・プロジェクトの曲『LET THE MUSIC DO THE TALKING/熱く語れ!』をリメイクしシングルヒットを飛ばす。

86年4月にはかつてのレコード会社であったCBSコロムビアからも『CLASSICS LIVE!/ライブ・クラシックス』 87年には『CLASSICS LIVEU/ライブ・クラシックスU』と経て続けにリリースされる。ちょうどその頃ニューヨークのラップグループRUN D.M.C./ランDMCがサードアルバムの収録曲『WALK THIS WAY/お説教』をカヴァーし、スティーヴンとジョーの二人もレコーディングとMTVに参加。曲は全米1位となりエアロは再び表舞台へと踊り出た。

トップバンドの座へと返り咲いた彼らが自らをTOP OF TOPSへ押し上げるための道のりとして発表したアルバムが通算13枚目となる『PERMANENT VACATION/パーマネント・ヴァケイション』です。

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